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修験道の開祖・役行者ゆかりの古寺
【日本遺産認定】2024年6月、日本遺産「葛城修験ー里人とともに守り伝える修験道はじまりの地」の構成文化財として追加認定されました。詳しくは、備考欄のリンクからご覧ください。 金熊寺は、別名「一乗山観音院」と云い、真言宗仁和寺の末寺です。 白鳳十(681)年、修験道の開祖とされる役行者が創建したと伝わります。役行者の経行の霊場であったとも伝わり、役行者が本尊である如意輪観音像を造り、金峯、熊野両神を勧請し、その鎮守としたことから「金熊寺」と号するようになったとのことです。 約350年の歴史のある梅の名所「金熊寺梅林」、明治の神仏分離令により金熊寺より分離した「信達神社」に隣接し、豊かな自然を背景に、和泉における山岳宗教の拠点であったという歴史にふさわしく堂々とした佇まいを見せています。
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みどりの百選でもあるパワースポット。極彩色の本殿も。
【日本遺産認定】2024年6月、日本遺産「葛城修験ー里人とともに守り伝える修験道はじまりの地」の構成文化財として追加認定されました。詳しくは、本ページ下部の備考欄のリンクからご覧ください。 梅の名所で知られる金熊寺梅林の近くにあります。濃い緑の参道を進むと、割り拝殿が、続いて石段の上に極彩色の本殿があらわれます。 天正年間に焼失したのち、江戸時代にこの地の豪族矢野氏が奔走し、五間社流造(桁行5間梁行2間)の立派な本殿を建てたと伝わります。江戸時代前期の建築では、大阪府最古級のものと考えられています。 本殿は長らく修復工事中でしたが、2021年春無事終了しました。
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歴史上の偉人も数多く通った浜の道
泉南市内には歴史的に重要な五つの街道が走っています。 2つ目の街道としてご紹介するのは「浜街道」です。江戸時代、大坂と和歌山とをつなぐ、紀州街道のうち、鶴原(泉佐野市)で分岐し、海岸沿いに進むルートがこの街道でした。孝子(きょうし)越街道としても知られています。一時は、紀伊藩主および家中の往来などの通行量が信達を通る熊野街道(小栗街道)よりも多かったようです。
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後鳥羽上皇が愛した魚がいた!
里外神社(りげじんじゃ)は、仁徳天皇(在位313-399年)の代に呉服(くれは)大明神を産土神として創立された社です。呉服大明神は、大阪池田市の呉服神社(くれはじんじゃ)に祀られている事でも知られている、呉の国から渡来し日本に機織(はたおり)技術を伝えたとされる織姫で、「機織」の守り神として崇敬されています。 また、境内に残る王餘魚淵(かれいがぶち)には、後鳥羽上皇に献上した「岡田ガレイ」が飼育されていたといわれています。現在のご祭神は素戔嗚尊(スサノオのミコト)です。
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境内でゆったりと癒しのひとときを。
集落の中にある緑の多い落ち着いた境内です。創建年・由緒は不明ですが、ご祭神は宇迦之御魂大神(うかのみたまのおおかみ)、又の御名を豊受姫之大神。食べ物を掌る神であり、住居の守り・商工業の守護神で、伊勢神宮の外宮にお祀りされている御祭神と同神です。
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村の生活に根づいた煉瓦
鳴滝地区には、三和煉瓦製造所があり、昭和47年に廃業するまで煉瓦製造が盛んでした。地元の村民はほどんどが副業として煉瓦作りに携わっており、当時が偲ばれる煉瓦遺構が地区のあちこちに残っています。写真は、三和煉瓦製造所のお稲荷さんです。台座には自社製の赤煉瓦、参道には自社工場にあった「輪環(ホフマン)窯」の部材が使われているそうです。
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江戸時代の豪農屋敷・国の登録有形文化財
山田家は、代々、庄屋職を務めた江戸時代からの豪農で村高1,600石を誇りました。泉南地域の数少ない豪農屋敷構えの構造が良く保存されていることから、平成14年には国の登録有形文化財となりました。
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壮麗な古代寺院跡広場
約1350年前、白鳳時代に建立された巨大な寺院遺跡で、国の史跡に指定されています。幾度かの火事にあい、建物は残っていませんが、奈良の法隆寺と同じ伽藍配置を採用した寺院としては最古級のもので、数多くの建物が立ち並ぶ大寺院でした。現在の寺院跡は公園として整備されており、五重塔基壇や回廊跡などが部分的に復元され、実際に足を踏み入れて往時の壮麗さを体感することができます。また302点の出土品は一括して国の重要文化財に指定されており、隣接する「泉南市埋蔵文化財センター」に常設展示されています。
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重要文化財の出土品で古代の大寺院を体感!
白鳳時代の大寺院「海会寺」跡に隣接し、史跡から発掘された出土品を展示しています。出土遺物のうち302点が国重要文化財に指定されており、2階の常設展示室では海会寺の出土品を中心に文化遺産の情報を発信しています。また、歴史関連図書やビデオなどを自由に閲覧できる図書情報コーナーが利用できます。また関連出版物の購入もできます。
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被害根絶の願いを込めて
大阪府泉南地域は、明治末から石綿(アスベスト)繊維産業が盛んでした。なかでもここ泉南信達地区は工場が集中立地する石綿紡績産業の中心地でした。 2006年から8年半の長きにわたり続いた泉南アスベスト国家賠償請求訴訟は、2014年最高裁にて原告勝訴の判決が確定しました。その勝訴を記念し、また石綿被害により奪われた多くの命の鎮魂、すべての石綿被害根絶の願いを込めて、2015年に訴訟関連団体により「泉南石綿の碑(せんなんせきめんのひ)」が建立されました。
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弘法大師に出会えるかも!?
浜街道(孝子越え街道)の樽井から、弘法大師の像がある林昌寺まで、野中を行く道が大師道で、昔は弘法大師信仰の道として親しまれてきました。 初秋には黄金の稲穂に赤い曼珠沙華と鮮やかなコントラストを楽しめる風景が広がります。
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信長の道
信達市場から男里を通り、鳥取荘(阪南市)にいたる、全長5.5kmの道です。織田信長の紀州雑賀攻めに際し整備されたのでこの名で呼ばれています。
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風吹峠を越えて紀州へ
信達から紀州根来までの全長17kmの道です。根来街道は樽井を起点とし、信達から風吹峠を越え紀州街道まで続きますが、その起点の碑が樽井にあります。浜街道と根来街道の交差点にあるこの碑には1839年の銘が記され、下記のとおりの道標が残っています。 (正面)「すぐ大川左紀州いせきこえ」 (南面)「右大坂」 (北面)「すぐ大坂」 (裏面)「天保十巳亥年十月吉日」
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藤原定家の手記にも記された王子跡
地蔵菩薩 馬頭(ばとう)観音を祀っており、この辺りに熊野詣の九十九王子のひとつ、信達一之瀬王子があったと想定されています。鎌倉時代初期の歌人藤原定家の熊野御幸記によると「天晴るる払暁道にいでて信達一ノ瀬王子に参ず また坂の中において祓う 次いで地蔵堂の王子に参ず 次いでウハ目王子に参ず」とあり、後鳥羽上皇一行がここを出発したときの様子が記されています。
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紀州公の愛した宿
参勤交代の折に紀州徳川家が泊まった本陣です。紀州街道は、紀州藩と岸和田藩の参勤交代路として整備され、紀州徳川家の参勤交代は、この角谷(つのや)家本陣で一泊することが習わしとなっていました。 紀州公ゆかりの調度品や、八代将軍吉宗の紀州藩時代の宿札、約1,500人とも伝わる大名行列の宿割をはじめとして当時の様子がうかがえる貴重な古文書も多く保存されています。写真は当時の勝手門で、右手の2階建ての蔵の部分に、人足(にんそく)の手配や荷物の継ぎたてをする人馬問屋が置かれていました。
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商売の神様が祀られる社
熊野街道の近く、信達市場にある神社で、ご祭神の豊受姫大神は、農業をはじめとし、機織(はたおり)その他各産業の発展をつかさどる神様です。創建は天仁元年(1108年)、伊勢外宮より勧請されたと伝わります。江戸時代、この周辺に市(いち)がたつようになり賑わったため、「商売の神様」として祭られるようになり、「市場稲荷神社」と呼ばれるようになりました。 秋祭りには、五穀豊穣を感謝する「御座」や、やぐらの宮入が行われます。 ※市場稲荷神社では、2024年夏、本殿及び拝殿の建替工事が竣工し、2024年9月1日(日)竣工記念奉祝祭が催行されました。
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「あじさいの寺」で泉南市を一望
神亀年間(724年頃)行基により創建され、聖武天皇の勅願寺であったと伝えられています。本尊は行基自作の秘仏であり、60年に1度の御開帳となっています。 6月には、参道石段の両脇や二つのアジサイの谷をはじめ、全山がアジサイで彩られることから、アジサイ寺とも呼ばれ、プロ・アマチュアを問わず多くのカメラマンが訪れます。また、高台にある本寺からは泉南市を一望でき、さらには関西国際空港や淡路島も望む事ができます。 和泉西国三十三箇所第28番、南海沿線七福神 福禄寿 第5番、ぼけよけ地蔵尊二十四霊場 第23番でもあり、多くの参拝客が訪れます。
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熊野詣のメインルート
泉南市には歴史的に重要な5つの街道があります。ひとつめは熊野街道です。 中世には京の都から熊野三山へ詣でる「熊野街道」の宿場として、そして江戸時代には参勤交代の宿駅「信達宿」として発展してきたのが信達の地域です。 信達大苗代、市場、牧野の街並みは、今も当時の面影を強く残しています。
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重森三玲 (SHIGEMORI Mirei) のアート・ガーデン
Click the link shown at the bottom of this page for a non-machine English translation focusing on goma-burning and fire-walking rituals. 行基開山と伝わる真言宗の古刹。清雅な佇まいの境内では、山号(躑躅山)にもなっているツツジが、毎年4月下旬に色づき始めます。その後、少し遅れて、5月中旬から下旬にかけて、京都・東福寺の本坊庭園(国の名勝)などでも知られる日本を代表する作庭家・重森三玲 (SHIGEMORI Mirei) 氏の「法林の庭 (Horin-no-niwa Garden)」でサツキが見頃を迎えます。
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信達宿の4万房の藤
古い街並みが残る熊野街道にある梶本さんのお宅では、樹齢40年を超える1本の野田藤が毎年4万もの花房をつけ、街道には藤の香りが漂います。藤が見頃を迎える毎年4月中旬から下旬には、「熊野街道信達宿のふじまつり」が開催され、藤棚が一般公開されます。期間中、藤棚のそばに観賞台が設置され、眼下に広がる藤の花房を見渡すことができます。熊野街道が多くの花見客で賑わい、熊野詣や参勤交代の一行が訪れた往時を彷彿とさせます。 信達宿は、熊野街道沿いの宿場町であり、また、江戸時代には、紀州徳川家の参勤交代時の最初の宿場であり、梶本家は屋号を「油新(ゆうしん)」という、油類も商う旅籠でした。
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樹間をぬける風が心地よいパワースポット
ここ天神の森には、男神社の元宮があり、浜の宮とも呼ばれています。江戸時代に防風林として植えられた松林を中心に、緑の森が広がっており、心地よい散策スポットでもあり、地元の子供達の遊び場にもなっています。 この森一帯は、昔は海浜であり、船舶の碇舶に適しており、神武天皇東遷の折、戦いで傷を負った「天皇の兄・五瀬命」が手当を受け、無念のあまり雄々しく叫んだ土地と伝わっています。古事記では、男之水門(おのみなと)、日本書記では、山之井水門(やまのいのみなと)または雄水門(おのみなと)と呼ばれているのがこの辺りと言われています。
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神武天皇ゆかりの里
男里の天神の森から樽井小学校付近一帯は山之井水門と伝えられ、古事記・日本書記によると、神武天皇の兄の五瀬命が矢傷を受け、無念のあまり叫んだところとされており、樽井には記念碑と玉垣を中心とした遺跡公園があり、男里にも地元住民が建立した遺跡碑があります。男里の遺跡碑は以前は五瀬命が矢傷を洗ったとされる「矢血代場(やちおば)」近くにありましたが、空港道路建設に伴い、現在の地に移転されました。
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大正の香りが残る煉瓦カフェ
赤煉瓦「Rui」 大正時代に建てられた紡績工場跡です。大正時代に西野紋羽として創業し、その後西野紡績に名前を変えた紡績会社の工場だった建物です。 当時の面影を色濃く残したまま、現在はお洒落なカフェ兼インテリア雑貨ショップとして営業しており、コンサートやアート展などのイベントにも活用されています。
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神武東遷神話ゆかりの古社
大阪みどりの百選にも選ばれた、豊かな緑を誇るこの神社は、神武天皇東遷の際、戦傷を負った皇兄、五瀬命(いつせのみこと)が雄たけびをあげたことから、「おたけびの宮」とも呼ばれています。深緑の参道は、まるで古代にタイムスリップしていくような不思議な空間です。年2回の大祓神事(茅の輪くぐり神事)にも多くの参拝客が訪れます。