昭和のはじめごろ、「泉南の砂川奇勝」といえば関西きっての観光地として有名でした。広大な範囲にひろがる松と砂岩が起伏をみせて連なるその様子は、日中は太陽に、夜は月の光に照らされて、まるで雪のように真っ白に輝き、人々を魅了しました。現在の「砂川」の地名も、この砂川奇勝の砂が川のように流れることから名づけられたと考えられています。当時に発行された絵葉書によると、所々に「天下の剣」や「鬼すべり」など、さまざまな愛称が付けられていたことがわかります。
昭和5年(1930)に現在のJR阪和線の前身となる阪和電気鉄道が開通し、砂川奇勝への最寄り駅となる「信達駅」(現在の和泉砂川駅)が設けられると、砂川奇勝へ訪れる人々はますます増加しました。大阪市内の小学校では、電車に乗って砂川奇勝まで遠足に来ることが人気となっていました。また、砂川奇勝の周辺には、金熊寺や六尾の梅林、畔の谷・高倉山などのハイキングコースが隣接していたことも、この人気に拍車をかけたようです。
昭和10年(1935)には、砂川奇勝の南側に砂川遊園がオープンしました。砂川遊園は、「第二の宝塚」をめざして開発され、園内には大きな花壇や飛行塔、動物園、遊覧ボート、キャンプ場などの施設が設けられ、駅から遊園への道路沿いには桜の木々が植えられて来園者を迎えました。また周辺には旅館や食堂なども次々オープンし、観光シーズンになると、1日に5、6万人の人々が訪れ、夕方の時間帯には駅前に切符を買い求める人々の長い行列ができるほどの賑わいであったといわれています。
しかし、砂川奇勝と遊園が一体となったこの人気の観光地は、戦争の足音が近づくにつれて訪れる人々も少なくなり、やがて記憶からも薄れていきました。
現在、砂川奇勝はその一部が公園の一角に残されています。昔の雄大な景色はそこにはありませんが、みなさんも一度現地を訪れ、かつての「一大観光地」の面影を偲んでいただきたいと思います。
(文・写真:O.K.)